[道教史]簡単にわかる道教と進香の歴史
この記事では徒歩進香をより深く理解していただくために、道教の基礎知識と進香の歴史について、わかりやすく紹介してまいります。
[目次]
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簡単にわかる道教
道教は中国古来の宗教であり、神仙思想を中心に、陰陽五行説や老荘思想が混ざり合い形作られていきました。
神仙思想とは、不老不死の仙人を目指すことです。
陰陽五行説は、この世に存在する五要素「木火土金水」を陰陽に分類し、それにより様々な事象を説明します。
老荘思想は、自然のまま、あるがままに生きようという思想です。
道教は、仏教や儒教と対立、融合を繰り返し、さらには政治や民間信仰からの影響を受け、紆余曲折を経ながら発展していきました。
しかし清朝末期になると、中国では宗教の排斥運動が始まり、あの現代中国三大悪夢の一つである文化大革命(他には大躍進と天安門事件)が起こったことで、宗教に関するものは、建物も文化財も、そしてその文化自体が徹底的に破壊され、いまではほとんどその名残を見ることができません。
そんな苦難の歴史にある道教ですが、中国からの移民や華僑たちとともに台湾や東南アジアへと伝わり、現在でも多くの人たちに信仰されています。
そんな中国でも、南部に位置する福建省や広東省周辺の沿岸地域では、まだ多くの道教廟を見ることができます。しかし中国では宗教を禁止してはいないものの、実際は政府により厳しく監督、管理されています。中国における宗教は、もはやほとんど形骸化してしまったと言ってもいいでしょう。
※龍山寺(鹿港)
台湾では明朝末期から清朝初期にかけて、全真教と並ぶ道教の一派である正一教が移民たちとともに伝わり、その後台湾古来の民間信仰や道教より少し遅れて伝わった仏教と深く結びつき、独自の発展を遂げていくことになります。
全真教と聞いてあれ?と思った方もいるかもしれません。全真教には七真人と呼ばれる高弟たちがおり、ちなみに道教の始祖は王重陽です。おおっと思った人は、立派な中国通です。さらに言えば、周伯通も実在した人物になります。
しかし台湾でも道教の受難は続きます。日本統治時代は当初、伝統文化に対して寛容的な政策が採られていました。しかし太平洋戦争が勃発するとそれは大きく転換され、強制的な日本化政策(皇民化政策)が推し進められました。人々は仏教へ改宗するよう弾圧を受け、多くの建築物や文化財を失いました。それでも道教への信仰は台湾人の心から消えることはなく、戦後も変わらず台湾の人々の生活に深く溶け込み、日常的にいろいろな儀式が行われています。
道教には日本の神道のように、数多くの神様が存在しています。台湾道教で人気の神様と言えば、媽祖、王爺、福德正神、玄天上帝、城隍爺、關聖帝君、財神、中壇元帥、觀音菩薩などが挙げられます。 ちなみに觀音菩薩は、關聖帝君と同様に仏教と道教の間に存在している神様です。
中国明代の小説「封神演義」には数多くの道教の神々が描かれ、現代道教も少なからずその影響を受けています。
キリスト教は17世紀に、オランダが南部を、スペインが北部を支配したことにより、プロテスタントとカトリックが広まりました。特に少数(先住)民族の村では、必ずと言っていいほど教会を見ることができます。
仏教は18世紀に、中国からの移民とともに観音信仰が伝えられました。その後日本統治時代になり、日本からもたらされた仏教と融合をしていくことになります。ただ現在の台湾仏教は、郊外の山地に建つ純粋な仏教寺院以外は、ほぼ道教との境界がなくなりつつあります。
実際多くの台湾人にとっての信仰の対象は、道教でも仏教でもなく、民間信仰であると言われています。中でも媽祖信仰は、明清代より、大陸から台湾の海峡や東南アジアへ渡る船を守ってきた海の女神を信仰しており、台湾において王爺信仰や土地公信仰とならんで広く信仰されている民間信仰との説明がなされています。
正直私も、台湾の民間信仰と道教、仏教の違いがいまひとつ理解できていません。いろいろ調べてみると、台湾の民間信仰は、中国から伝わった道教、仏教、儒教や台湾古来の自然崇拝や祖先崇拝などが融合し、台湾独自の信仰として形作られたものと書かれています。
つまり大多数の台湾人が信仰する民間信仰とは、道教、仏教、儒教、自然崇拝、祖先崇拝といった食材を切り分け、その一部(宗教施設の参拝や儀式など)を使用し、台湾伝統文化という味付けにより混ぜ合わせた一つの集合体的料理と言っていいのかもしれません。だからこそ、人々は道教廟にも、仏教寺院にも、孔子廟にも、石頭公廟にも、日常的にお参りに足を運ぶのでしょう。
我々日本人も、神社やお寺にお参りには行っても、だれも悟りを開いたり、幽冥に行き子孫たちを見守るなんてことは目指していません。さらには神社や寺院で修行をしたりもしません。
一般的な日本人にとっての神道、仏教とは、精神的な拠り所であり、七五三や盂蘭盆会、結婚式やお葬式といった儀式を行うためのものです。要するに日本人の信仰も、神道と仏教が融合した民間信仰であると言っても過言ではないのだと思います。
私個人の考え方になりますが、神社やお寺に神様や仏様はいないと思っています。さらに言えば、お墓にもご先祖の方々は眠っていません。みな天高いところか、私たちの心の中にいるのだと考えています。神社や寺院、家々の神棚もそうですが、それらは心静かに神様や仏様と対話をする場所になります。神様たちと対話をすることで、それが信じる力となり、自己暗示となり、人生が好転していくのです。
簡単にわかる進香の歴史
中国において進香とは、もともとはお寺や廟をお参りし、線香を供えることを意味していました。仏教や道教において、僧侶や道士らによる巡礼は古くから行われ、それが宋代になり一般個人による "巡礼としての進香" が始まると、明清代には次第に集団で行われるようになっていったと言われています。
泰山、南岳衡山、武当山、天竺山などには多くの進香団が訪れており、中国福建省湄洲島にある湄洲媽祖祖廟にも、数多くの信者たちが歩いて進香に向かっていました。
しかしその湄洲媽祖祖廟も文化大革命で完全に破壊され、文革後中国での進香はその影を潜めていくことになります。ただ閩南地域などでは、現在でも春節の時期を中心に、まだその姿を見ることができるようです。
台湾では今から200年以上前に、彰化南瑤宮による進香がスタートし、その後白沙屯拱天宮、北港朝天宮、大甲鎮瀾宮などでも徒歩進香が行われるようになりました。日本統治時代の南瑤宮の進香では、10万人以上が歩いたと言われています。また北港朝天宮には昔から、北部南部問わず多くの徒歩進香団が訪れています。
戦後になり交通が発達すると、車による進香を行う廟が増えていきました。現在では、台湾全土で年間数万回にものぼる進香が実施されています。
その中で徒歩進香は、現在大甲媽祖、白沙屯媽祖を筆頭として、媽祖信仰を中心に100宇程度の廟で行われており、ここ20年でその数もどんどん増え続けています。
簡単にわかる媽祖信仰
ここでは徒歩進香と関わりの深い媽祖信仰について、簡単に解説いたします。
媽祖とは正式名称を天上聖母といい、中国民間信仰を発祥とする道教の神様です。航海の神様、海の女神として、その信仰は10世紀末からそれ以降に中国福建省湄洲島で始まりました。媽祖の来歴にはさまざま言い伝えがあり、一般的に言われているものは、林黙(娘)という女性がその死後神格化したというものです。さらに林黙娘という人物にもいろいろな説が存在しています。
林黙娘は唐代から宋代頃の人物で、その出生については賢良港の役人の家に生まれたというものや湄洲島の漁村で生まれたという説があります。子供のころから不思議な力があったとされ、当地で巫女をしており、生没年はわかっていませんが、現在では生年960年3月23日、没年987年9月9日とされています。亡くなった理由も、漁師だった父親を捜しに出て遭難したというものや台風に巻き込まれた船員たちを救助しようとして亡くなったなど様々です。
林黙娘はその死後、媽祖として亡くなったとされる湄洲島に祀られました。霊験あらたかという名声は徐々に広がり、死後1世紀が過ぎ明代に入ると、海外との交易のための航海が増えたことで朝廷より高い位を、清朝になると「天后」の位が与えられました。
ただ中国全土でみると、福建省などの沿海地域では信仰されていますが、道教の神々の中でそれほど人気がある神様とは言えません。しかし媽祖信仰は、湄洲島のみならず泉州天后宮や文峰天后宮などの媽祖廟を通じて、航海の神様として移民とともに海外へ伝わり、多くの信者を獲得していきます。
中国大陸からの移民が多かった台湾へは、16世紀終わりから17世紀初頭にかけて澎湖諸島へ、その後台湾本島に伝わりました。当時の航海はかなりの危険を伴っていたため、人々は船に媽祖像を祀り航海の安全を祈りました。こうして無事に到着すると、媽祖像は台湾で祀られ、媽祖信仰は台湾各地へと伝わっていきます。
時代の流れとともに、媽祖は航海の女神から万能の神へと変り、現代に至っても台湾のみならず、ベトナムなど東南アジアにおいても深く信仰されています。日本では横浜や沖縄などに媽祖廟を見ることができます。
最後に
これで大まかな歴史の流れが理解できたかと思います。それでは以降の記事で、大甲媽祖遶境進香、白沙屯媽祖進香を中心に、毎年数十万人が熱狂する徒歩進香イベントについて紹介してまいります。
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